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サンタンジェロ城

ボルゴ地区

時間  毎日9.00~19.30

入場料 14€ 毎月第1日曜日は無料

Roma Pass、 Roma & Più Pass使用可能

秘密の通路ツアー(おすすめ!) 5€

住所 Lungotevere Castello, 50

オーディオガイド 英語、イタリア語、ドイツ語、ポーランド語、スペイン語、フランス語のみ

 

歴史

「Mausoleo di Adriano(ハドリアヌス廟)」とも呼ばれているサンタンジェロ城は、ローマ皇帝ハドリアヌス帝 (76 – 138 d.C.)の遺体が収められている墓です。

初代ローマ皇帝アウグストゥスの霊廟をモデルに、135年ハドリアヌス帝が自らの霊廟として建設を開始させました。

ハドリアヌス帝が138年に亡くなると、後継者であるアントニウス・ピウス帝が139年に完成させ、ハドリアヌス帝と妻の遺骸を霊廟に移しました。

410年頃、その強固な建築構造から、外敵から守るための要塞として、500年頃には牢獄、その後、ローマ法王の避難場所として使われていました。

入口から堡塁(敵の攻撃を防ぐための陣地)

城の周りを囲む廊下を進むと、4つの堡塁のうち3つを見ることができます。これらを見るとこの城がどれだけ要塞に適しているか分かるでしょう。

またハドリアヌス帝の時代の巨大な胸像がいくつか飾られています。

視察中にナイル川で謎に包まれた溺死をしたハドリアヌス帝の愛人、アンティノウスの像も置かれています。

アンティノウス-ハドリアヌス帝の愛人

経路を進んでいくと4つのうちの初めの堡塁、サンマルコ堡塁にでます。これらの堡塁は1400年に建設され、霊廟から要塞への変貌を遂げました。これらの堡塁からは城の全周囲を監視することができ、城を外敵から守るのに役立ちました。

霊廟から要塞への変換が実際始まったのは1200年半ば、ローマ教皇ニコラウス3世が城内に教皇のための部屋を建設し、3つの堡塁を周囲に建設した時です。

続いて、アレクサンデル6世によって要塞としての要素が強化されました。4人のエバンジェリストの名前をとった4つの堡塁を建設します。堡塁はそれぞれ壁でつながれ、テベレ川の水で満たすため内部に溝が彫られました。

サンマルコの堡塁

4人のエバンジェリスト(福音史家)の名前をとった堡塁にでます。

始めの堡塁は一番重要な堡塁、サンマルコの堡塁。なぜならバチカンとサンタンジェロ城を結ぶ通路が通っているからです。バチカンから城内の教皇の部屋まで外に出ずに逃げることができます。

この通路が完成したとき、ニコラウス3世はサンジョバンニ聖堂からサンピエトロ大聖堂に住居を移しました。サンジョバンニ大聖堂の千年にわたる教皇の住まいとしての役割が終わったのです。

緊急時に、教会の中心部から守りの堅い城に逃げ込むことができ、かつ防御に優れた堡塁のあるこの城が教皇の住まいとしてぴったりでした。少なくとも2回この通路が避難のため使われたことが分かっています。1回目は1494年アレクサンデル6世がフランス軍から逃げるため、2回目は1527年クレメンテ7世がローマの略奪(ランツクネヒトと呼ばれるドイツ傭兵隊による略奪)から逃れるために使用されました。

サンルカの堡塁

サンマルコの堡塁から時計回りに進むとサンルカの堡塁にでます。サンマルコの堡塁と同じ大きさです。時代の経過とともにこの堡塁もより大きな大砲が使えるように、改良されます。また、外部からの攻撃に備えて狙撃するための小窓がついた城壁の内側に通路をつくり周囲を監視しやすくしました。

1500年、ローマ教皇ピウス5世によって五角形の城壁が建築されました。

サンルカの堡塁にはクレメンテ5世の武器庫が隣接しています。これは16世紀に建てられた3階建ての建物です。

サンジョバンニの堡塁

サンルカの堡塁から進んでいくと3つ目の堡塁、サンジョバンニの堡塁に着きます。このコースは城の防御のため、巡回して警備をしていた通路です。

小さな塔の中では、再建された当時の武器製造場を見ることができます。

堡塁を過ぎると、1300年終わりに建設された通路にでます。これは皇帝とその親族の遺体が収められている場所、ウルネ広間に続いています。

 

ウルネ広間

この部屋に続く通路は1300年代終わりに軍事的な機能を強化するために造られました。実際この霊廟は要塞の防御のためにとても役立ちました。ウルネ広間に直結しているこの唯一の通路は足元に揚げ戸があります。敵が侵入に成功したときのために落とし穴が用意されていました。

さらにウルネ広間に続く正面の扉の側面に2つの穴があり、その中には大砲が設置されていました。

この部屋は霊廟の中心部です。ここにはハドリアヌス帝とその家族の遺骸が大切に収められており、壁のへこんだ部分には皇帝家族の骨壺が保管されていました。

天使の中庭

ウルネ広間をでると天使の中庭と呼ばれる開けた場所にでます。名前の通り、中心部に大天使ミカエルの像がたっています。

1500年代半ば、ローマ教皇が城の中に教皇の部屋を作った時からの姿をそのままとどめています。

ローマ教皇が危機的状況に陥った要因の一つであるランツクネヒトによるローマでの略奪が行われた1527年、当時の教皇クレメンテ7世はサンタンジェロ城に逃げ込み、ランツクネヒトがローマを離れるまでの7か月間ここに滞在していました。

教皇の部屋のメインの入り口とつながっていたため、この中庭は貴人の中庭とも呼ばれていました。1737年、城のてっぺんに建てられていた大天使ミカエルの像が傷んでいたので、この中庭に移されました。代わりに新しい青銅の像が建てられたのです。

他の部屋

始めに、ハドリアヌスの広間です。ファルネーゼ家出身のパウルス3世によって建てられた2部屋のうちの1部屋です。ここも神話を題材とした古代ローマのモニュメントが描かれています。

2部屋のうちのもう1部屋は隣接して建設されたフェストーニの広間です。ここも神話をもとに装飾されています。例えばトリトンとネレイスの行進や人間の外見をした海の妖精などです。

次の部屋は錬金術師として有名なカリオストラの名前が名付けられている部屋カリオストラです。サンタンジェロ城に投獄される際、この部屋に拘束されました。1789年に4年間投獄され、サンレオの城塞に移送された2年後獄中で亡くなりました。

次はこれまでとまるで違う雰囲気の宝物庫です。この名前は、1700年代の終わりまで、この部屋に教会の貴重な金品を保存していたことが由来しています。その後は刑務所として使用されていました。

屋上

頂点に大天使ミカエルの像があることから天使の屋上と呼ばれています。以前にたてられていた像が悪天候にさらされ傷んでいたので、1753年この像に差し替えられました。

一番の見どころは360度全方向を見渡すことができる眺めです。ローマの有名な建物を見下ろすことができます。

パオリーナの部屋

この部屋の名前はファルネーゼ家出身のローマ教皇パウルス3世にちなんでいます。

パウルス3世はマーティン・ルターの宗教改革が起こった大変な混乱の中で選出され、難しいかじ取りを迫られました。

この部屋を城の中で一番豪華に飾り立て、訪問客に教会の力を誇示するため訪問客を迎えるのに使いました。

部屋の向かい合った壁にはそれぞれハドリアヌス帝と大天使聖ミカエルが描かれており、その時代に同時に存在した2つの異なる文化をシンボリックに表しています。